HOME > タイ旅行記 > アユタヤ > 日本人街
  • home
  • タイ旅行記
  • タイ*ガイド
  • 便利な旅行用品
  • タイ音楽
  • タイ料理
  • 航空券・ツアー・ホテル

『日本との絆』日本人街

『日本との絆』日本人街


日本人村

アユタヤの日本人町は、アユタヤ市内から南へ4kmの
チャオプラヤー川沿いにあり、アユタヤ王朝と当時の日本の交流を
物語っています。

現在は記念碑と『歴史研究センター』が立つだけで、当時の面影は
残ってないですが、当時ここに1500人もの日本人が生活を送って
いたと思うと、とても感慨深いものがあります。

当時の日本は、アユタヤと朱印船貿易を行って、
金物を輸出して革製品を輸入していました。
そして、関ヶ原の戦い・大坂の役の影響で君主を亡くし浪人となった兵や、
幕府の迫害にあっていたキリシタンが多数アユタヤに流れ着きました。
アユタヤも周辺国との争いで戦力を必要としていたため、
彼らを兵力として受け入れた事で、多くの浪人が流入することになりました。
浪人の増加に伴い、彼らの政治的発言力も次第に増していきました。
その中にあって頭角を現したのが、山田長政です。



山田長政

山田長政は、貿易活動を通じ一大商人となり、日本人町の頭領となります。
また軍事的能力も優れ、日本人義勇隊隊長も勤めました。
その後、22代国王ソムタムの寵愛を受け、官僚ナンバー3まで上り詰め、
大活躍をします。
しかし、アユタヤで権力を握っていた山田長政も、ソムタム王の死後、 山田長政を妬むグループとの後継者争いに巻き込まれ、毒殺されてしまうと いう悲劇が起こります。



アユタヤ日本人町跡と山田長政

ここも他の寺院と同様に、1767年にビルマ軍により破壊されました。
当時16mあったという金で覆われた仏像も、金を奪われた後に、
跡形もなく壊されてしまいました。
今は、壊された後の瓦礫の山と化しています。とても痛々しい姿です。
ビルマの侵略の激しさを伝える、アユタヤでも最大級の寺院跡地となってます。



その結果、日本人グループを疎ましく思う王が即位し、急速に仲が
悪くなっていきます。ついに日本人側は兵を集め、王を人質にして
王宮内に立てこもります。
しかし、反日本人グループ(王派・華僑)に倒され、反逆の印として
日本人町も焼き討ちに遭い、多くの日本人が命を落としました。
その後、江戸幕府による鎖国令によって貿易も衰え、
日本人勢力の軍事的・政治的な影響力は完全になくなり、
現地人と同化する形で人や町は消滅していきました。



行き方はトゥクトゥク(10分)・レンタルバイクかツアーが一般的です。
レンタル自転車で行けなくはないですが、かなり疲れると思います。
日本人町跡の入場料は20バーツで、営業時間は8時〜17時で、休日はないです。



アユタヤ日本人町の跡



タイのツアー予約はこちらへ

アユタヤ旅行記トップページへ

PAGE TOP